東日本大震災被災者支援事業の概要
■震災支援事業を開始したきっかけ
2011年3月11日の東日本大震災の発生は海外メディアでも大きく取り上げられた一方で、支援の必要性や、日本の支援団体に関する情報発信はWeb上でもほとんど日本語で発信されていました。そこで、SEEDS Asiaは、初動対応として、被災地の状況について英文で取りまとめ、海外への情報発信活動を行いました。
また、海外への情報発信と並行して、平成23(2011)年4月1日から4月5日にかけて、OYOインターナショナル株式会社、京都大学とともに合同調査チームを編成し、岩手県及び宮城県の被災地沿岸の計12市町の被害及びニーズ調査を実施しました。
4月に入り、被災地では、仮設住宅の建設・入居が開始されようとしていました。阪神・淡路大震災(1995)では、被災地から離れた場所に仮設住宅の建設用地が確保され、また、入居が抽選により決められたことから、被災者の従前のコミュニティが維持されることはありませんでした。この結果、入居者の孤立化が進み、一人暮らしの方が仮設住宅内で亡くなっても長期間発見されることなく放置されるといった悲惨な孤独死も発生しました。
東日本大震災の被災地、宮城県気仙沼市でも、公平性の観点から、仮設住宅の入居決定は抽選で行われ、入居先の団地内では顔見知りが少ない、という状況になり、福祉ニーズの側面から、仮設住宅居住者の見守り活動が必要とされていました。こうした中で、4月に被災者自身で復興支援活動を行う目的で立ち上がった気仙沼復興協会(KRA)が、仮設住宅の見守り活動を開始しようとしていました。一方、KRAにはこういった活動の経験がなかったことから、SEEDS Asiaが技術的な支援(ノウハウの提供)を行うこととなりました。
■宮城県気仙沼市での事業内容
□仮設住宅でのコミュニティづくり支援(KRAと共同事業)
2011年6月より、KRAとともに、気仙沼市内の全仮設住宅を対象に、お茶会活動を展開しています。お茶会は、当初、仮設住宅の居住者同士が顔見知りの関係になることを目指しました。続いて、会話の中で、さりげなく「仮設住宅に設置されている集会所・談話室のカギを管理してくださる方がいると、お茶会を開催しやすい」、「自治会があると、支援団体が活動しやすくなり、支援が届きやすくなる」と伝え、仮設住宅団地の自治組織づくりを促しました。現在では、仮設住宅団地の自治会長と調整し、お茶会を開いています。
また、お茶会に参加せず、住居から外に出たがらない人に対しても、外出機会を作り出すため、SEEDS Asiaは、気仙沼復興協会が企画・実施する地域イベントの支援も行い、仮設住宅の居住者の交流促進を図っています。
□仮設住宅団地代表者交流会(VSKと共同事業)
2011年の冬が近づくにつれ、仮設住宅でのお茶会でも、冬期対策に関する不安の声が聞かれるようになり、中には、直接市役所に問合せや対応の依頼を出す仮設住宅団地の自治会長も出てきました。一方、仮設住宅団地の自治長間の交流は、一部の個人的知り合いでの意見交換に限られ、例えば、市に対して合同で要望を出すといった取組はありませんでした。
そこで、SEEDS Asiaでは、2012年1月に、各仮設住宅の現状や課題について情報を交換し、解決に向けた取り組みをともに考えることを目的として、気仙沼地区の仮設住宅団地の代表者交流会を実施しました。
この仮設住宅代表者交流会は、2012年度に入り、震災後に設立した気仙沼の地元団体、ボランティアステーションin気仙沼(VSK)が引き継ぎ、SEEDS Asiaはその運営に協力しています。
□防災教育・ESD(持続発展教育)の支援
2012年度より、SEEDS Asiaは、京都大学大学院環境地球学堂国際環境防災マネジメント論分野とともに気仙沼市教育委員会内の教育研究員(気仙沼市内の小中学校教員により構成)が行う防災教育に関するワーキンググループの運営に協力、会議で技術的助言を提供したり、視察研修の機会等を提供したりしています。
また、気仙沼市内の小中学校において、ボランティア活動の体験学習や、仮設住宅の居住者との交流、地域の伝承を題材とした創作劇の技術的指導等、総合的な学習の時間での防災や地域学習の実施に協力しています。
さらに、兵庫県立舞子高等学校の環境防災科と協力して、同校の高校生を気仙沼に派遣して気仙沼の中学生との交流事業を実施したり、気仙沼の中学生を神戸に招へいして、阪神・淡路大震災の教訓を生かした防災教育・防災活動の研修機会を提供したりする、学校間交流事業も実施しています。
□被災したコミュニティの復興支援
今回の震災では、人と人とのつながり、「絆」の重要性が再度見直されました。SEEDS Asiaでは、被災により、震災前のコミュニティのつながりが分断された地域で、コミュニティ活動を再開し、再び絆を取り戻そうとする取り組みも、2012年度に開始しました。
2012年9月には、震災により中断していた被災した地域の祭の再開を支援しました。2013年からは、津波により壊滅した地域の記録誌づくりを通して、現在はバラバラに居住している地域コミュニティの方々が再度集まり、お互いの情報や意見を共有し、かつてのつながりを取り戻そうとする活動も開始しました。また、コミュニティでの劇づくりを通した伝統芸能をはじめとする地域文化の復興支援にもかかわっています。
■宮城県気仙沼市について
宮城県気仙沼市は、宮城県北東端の太平洋沿岸に位置し、人口約7万人、面積約333km2、水産業と観光を中心に栄えた都市です。特に、マグロ、カツオ、サンマは、日本有数の水揚げ高を誇り、市中心部には古くから水産加工団地が発達していました。気仙沼中心部から北の唐桑半島沿岸は、リアス式海岸が有名です。
気仙沼市では、山、川、海と恵まれた自然環境から育まれた食文化を活かしたまちづくりを進めるため、2006年に「気仙沼スローフード」都市宣言を発表、同時に、水産業を基幹産業とする同市で、魚を取り入れた食生活により健康を増進することを目指して魚食健康都市宣言を発表しました。このように、気仙沼市民は、海と密接にかかわって生活しており、市としても水産を主体としたまちづくりを進めていました。
一方、気仙沼市を含む三陸地域は津波の常襲地帯であり、近代に入ってからも幾度となく津波に襲われました。1896年の「明治三陸大海嘯」では死者27,122人、1933年の「昭和大津波」では3,008人、1960年の「チリ地震津波」では119人の死者が発生しています(※)。
2011年3月11日の東日本大震災では、地震により発生した津波被害に加え、湾口に設置されていた石油タンクから重油が流出して発生した大規模火災により、特に、水産加工やその関連産業が集積していた市中心部は壊滅的な被害を受けました。死者・行方不明者計1,316名、住家被災棟数15,611棟、被災世帯数約9,500世帯を数えます(2012年5月29日現在)。また、気仙沼市によると、市内4,102事業所のうち推計3,314事業所、従業員30,232人のうち推計25,236人と、いずれも8割以上が被災したと考えられ、市内経済は大打撃を受け、多数の震災失業者が発生しました。
※気仙沼商工会議所(2003)「まるかじり気仙沼ガイドブック」
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